2014年7月31日木曜日

【2014/07/31】話し合い。

公演を間近に控えて、稽古時間のほとんどを話し合いに費やしました。
「公演が近づいているのに、皆の気持ちがバラバラ」と感じた一人のメンバーの呼びかけによる話し合いでした。メンバーとはラボメンバーのみならず、主催者(劇研)やスタッフも含めたメンバーです。参加したそれぞれが、自分の意見を言い合い、今から私たちが何をすべきか、どういう気持ちで取り組んでいくのか、が確認されました。
もちろん不満もあるだろうし、疲れも、焦りも含めた、色々な思いもあることと思います。それも含めて、忌憚ない意見交換ができたことはとても良かったと思います。
貴重な本番直前の稽古をつぶして行う、価値のある話し合いだったと思います。
そしてこれが、公演にとってプラスに働くことを心から願っています。

2014年7月28日月曜日

【2014/7/26】身体と声のバランス


例えば最近ではマルチタスクという元々はコンピューターにしか使うことのなかった言葉を比喩的に人の行動というか行為の仕方についても使うことが多くなっていて、つまり効率よく色んなことをこなせるとか、結局どっちも中途半端になってしまうものだからむしろ仕事には向かないとか、器用な人はいくつも平行してあれやこれやとこなせるのでしょうが、とにかく、複数の事を同時にまかなう、というような状態のことを指すのだろうと何となく理解できます。


稽古場で当たり前のように発せられる、もっさい、という言葉を出演者たちが理解や了解ができるのは、そのマルチタスク、という言葉がパソコンが当たり前になったからこそ、ここ数年で浸透した言葉として一般化されたように、作、演出のあごうさとしさんと出演者たちが一年を通じて共に過ごした時間があったことの象徴的するさり気ない一言だと思います。


今日の稽古では3行程度の短いセリフに苦闘していたとある出演者は、そのセリフの間にどんな身振りをするか、具体的にはどんな風に笑える間抜けな動きが出来るか、ということを実践しながら、なおかつ、しっかりとセリフも届ける、つまり声を出しながら身体も動かす、というマルチタスク、といっても日常はそんな事を繰り返しているのですが、意識して身体と声を同時に動かそうとすると、どうしてもギクシャクするもので、その3行の稽古のために多くの時間が費やされました。


ある意味で重箱の隅を突くような細かい指示が費やされるのは全体の骨組みがしっかりとしている証拠かと思います。小さな事をコツコツと、ばかりやっていると大抵はドカンと大きな事をしないと不安になったりするものですが、間もなく本番だからこそ、小さく小さくまとまった身体と声を届けられたらと思います。

2014年7月25日金曜日

【2014/7/24】もっさりとした時間


この 「背泳ぎの亀」 の稽古場では時々、というか最近は割と沢山の頻度で 「もさい」「もっさい」「もっちゃり」といった言葉を聞きます。具体的な使われ方としては
「そこのやり取りがもさい」 「もっさく聞こえる」 というような感じで、このクラスの講師であり次の公演の作・演出であるあごうさとしさんの口からこの言葉は主に聞かれます。


そしてそれは見ながら、ああ、確かにもっさい、うむ、もさいな、とうなずく時も多いのが不思議なのですが、何となく、この 「もさい」 という言葉は大詰めに差し掛かったこの稽古場の中では一つの重要な言葉になってきているようです。


何がもさくて何がもさくないのか、というそんな曖昧な、ある程度抽象的で比喩的なそのもっさい、という言葉を、それでも、出演者たちは少しずつ体感しているようで、例えばそれは、今回の通し稽古のあとに 「あのもっさい時間が減りつつある」 とあごうさんが口にしていて、感覚的にもそれは感じられることでもあるのだけれど、それだけではなくて、例えば前回の通し稽古に比べて今回のランタイム(通し全体の時間)が6分も短くなって、余分な時間が減ることによって時間が短くなったのでしょうが、それだけではなく、具体的に少しずつ、色々なことが引き締まってきているようです。


その 「もっさりとした時間」 という言葉がお互いに通じ合えるくらいには長く稽古を続けてきた出演者たちのラストスパートが始まったような気がします。是非とも、もっさりとしない時間を過ごせるようにしていただけたらと思います。

2014年7月24日木曜日

【2014/7/21】何を考えて稽古するのか



という言葉が今回の公演の作・演出である、あごうさとしさんから出演者へ向かって発せられました。


勿論それは難しいことを常に考えながら演技をすることではなくて、逆に、ただキャラクターの気持ちとかそんな簡単な事でもなく、それは純粋に、あごうさんの考えた演出に関わる言葉に対して、出演者はどんなふうにリアクションを取っていて、それをどんなふうに舞台上に表わそうとしているのか、という、至極まっとうなことでもあると思います。そして、あごうさんがそうやって厳しい声を出している理由は、そんな風に何かを表そうとする態度が稽古場でさえ見えないのであれば、観客席から眺めている眼も、その真摯な態度を見つけることが出来ません。


ここは学校みたいなものだけど、稽古場でもあるんだから、というあごうさんの言葉の中にも含意は多く読むことができて、結局、アクターズラボは俳優になるための準備施設だとしても、アトリエ劇研でチケットを買ってもらい、お客さんの前で公演をするために準備が進んでいる以上は、お客さんは学芸会を見に来るのではなく、演劇公演のためにそこに訪れます。


稽古場で培ったはずのものが学芸会ではなく演劇の公演として、ひとつの上演として観客の皆さんに納得してもらうためにいったいどうすれば良いのか、そんなことも含めて考えながら残りの稽古を詰めていただけたらと思います。


2014年7月21日月曜日

【2014/7/19】大詰めの少し手前



まだ、大詰め、と呼ぶには少し早いその稽古場では、本番を前にした俳優たちの緊張感と言うよりは、自分を見つめ続けている、自分の中で完結してしまっている言葉や身体がそこにあるように思います。


ほとんど、大体、おおかた、ざっくりと、台詞も掴んできているし、立ち振る舞いや声の出し方や段取りも身に入ってきているからこそ、同時に自分のやりやすい、自分の癖や習慣が抜けなくて、それを個性だからと言って残しておくことも出来るけれど俳優修業である以上、自分がこうである、という事よりもまず、俳優とはどんなふうにいるべきか、という事が最初に無ければならないでしょうし、この 「最後のコント」 という公演については、なにか特別な技やアクロバットが目白押し、と言うよりは、まるで私たちのような人間を演じなければならない、のであれば、その私たちのような人間とはなにか、についても考えなければなりません。


そして、その私たちとは、出演者だけではなく、観客席も含めた 「私たち」 である以上、自分についてだけを見つめるのではなく、自分が見られているという意識や、自分は人の前に出ていく、と言う意識が必要なのかもしれないと言う感想が生まれたのは、演出のあごうさとしさんの口からは、最近たびたび 「台詞が芯を捉えていない」 という言葉が聞かれるからで、その芯を捉える台詞とは何かを考えると、少なくとも、自分だけを見つめて出された声ではなくて、誰かに向けられた切実な声を期待しているのかもしれないと考えたからでした。


もうすぐ1年の締めくくりである 「最後のコント」 がアトリエ劇研にて上演されます。客席は50~60席まで作れるため、そこが満員になればそれだけの視線がたった9人に注がれます。ぜひ、その視線の期待を超えるため、ここから数週間、最後の大詰めの時間を過ごして頂けたらと思います。

2014年7月18日金曜日

【2014/7/17】あいだ


今日の稽古は中盤~後半にかけての3ページくらいのシーンを念入りに繰り返すような稽古でした。


その中で印象的だったのは、とある出演者の一人が、たった一言のセリフを繰り返しやり直しながら、やがて何が正しいのかわからなくなっていくように、ぶつぶつと一言を繰り返しつぶやいていたことです。


もちろん演出のあごうさとしさんから指導が加わり、そこからどうしたら良いのかを考えながら台詞を声にしているのですが、どこかしっくりこない顔で、なんども台詞を繰り返しています。


不思議なのが、その正解が一体どこにあるのかということで、例えばあごうさとしさんの中にある答えを完璧にこなせるのだとしても、それではその演技をするのがその俳優である必要が何なのか分かりませんし、かといって自分にとってはこれがサイコー!というように人の意見を聞かずにやるのであれば、共同作業としての演劇である必要もありません。そういった意味で、その一言の正解は、演出の眼と舞台上に立っている役者との間で見つけられるのを待っているのではないかと思います。


あいだ、という漢字はつまり間で、それは別の読み方では、マ、と言ったりしますし、よくあるダメ出しで、間が悪い、とか言ったりしますが、それはきっと、観客席と舞台上とのあいだに必要な言葉や出来事をつかみ損ねている時に使われる言葉なのでしょう。残りの稽古の中で、その悩ましいひとことを含めた、マ、あるいは、あいだ、の距離やタイミングが見つかってくれればと思います。

【2014/7/14】通し稽古2



本番公演の差し迫った 「背泳ぎの亀」 。毎週月曜日は本番と同じように、最初っから最後までこの 「最後のコント」 を通して稽古をしています。


そして本日は舞台監督の北方さん、照明の長井さんが稽古に参加してくれました。普段はこのクラスの講師であり作・演出のあごうさとしさんが座っている長机の横に、もう一つ机が置かれ、いつもより人数の多いその稽古場はどことなく緊張感の増したものになっていました。


1時間を超えるその公演ですから、どうしたってそれぞれに苦手な所だったりがあるようで、見ながらハラハラとしてしまうシーンもあったりするのですが、全体を通してみることで、改めて足りないものや課題などが見えてくることもあるのかもしれません。


シーン、という言葉には、情景とか風景といった意味の他にも、現場、ですとか、現れ、とかいう意味が広義にはあるようです。まだまだ発展途上であるからこその稽古場で、どんな出来事が現れるのか、実は公演まで一ヶ月を切っている事に驚きながら、その一か月後の本番で、どんな演劇が現れるのか。出演者ともども、アトリエ劇研にてお待ちしています。

2014年7月13日日曜日

【2014/7/12】足元

8月の公演間近の稽古ですが、本日は1時間を超える本編の、最初の20分くらいのシーンをひたすらに何度も繰り返していました。


稽古が進むにつれて、出来ていると思い込んでいたところが出来なくなっていたり、1回はちゃんと覚えたのに、数日あるいは数週間、そのセリフを言わなかったせいでそのことを忘れてしまうという事は多々あることですし、そりゃあ1時間を越えるやり取りを全く完璧にいつまでも覚えていられるという人は、実は有名な俳優さんなんかのいくつかのエピソードを聞く限り、一度やった振付や段取りをずっと覚えていられる京都の俳優さんなど、いないことはないらしいのですが、普通に考えたら、そんなケースは特殊なことで、大抵は忘れてしまうものです。


上の写真は出演者の女性の足ですがもはや性別も何もあったものではない、真っ白な足、となっています。
靴は市販の白いただの靴、それに布を縫いつけるなどのあれこれ工夫の工作で完成させた小道具なのですが、と、文章にして説明してみたらほんの数行で、写真で見れば一瞬で目に入るそれを作るのに、1時間もかかってる、というのです。大体、前回の通し稽古が1時間半くらいで、これからもっとコンパクトになっていくとしても、この本編と同じくらいの長さが、小道具の靴1足にかけられているという事です。ドラム缶を探す、というのも随分と珍しい経験ですが、白いクツを1時間も見る、というのも、なかなかレアな経験かと思います。


モノによっては3時間を超える演劇もあればそのくらいの長さの映画もあるし、1000ページを超える小説や論文など、そういったものに比べてしまえば1時間くらいの演劇公演というのは決して長いものではないけれど、例えば出演者の足元にはそれぞれに1時間の手間と労力が懸けられていて、公演時間は1時間だとしても、それぞれの足元に手間をかけられた時間のように、舞台上の時間はそれまでに費やされた時間が何層も重なって出来上がる時間です。


その費やされた時間によって、舞台上がどんな奥行きのある時間になるかは、やはり 「白い靴に工作する」 というレアな時間も含めた、そして稽古も含めた、公演までの日々の過ごし方かと思いますが、とりあえず、この靴も1足しか出来ていないようですし、まずは足元から、少しずつ作り上げていけたらと思います。

2014年7月11日金曜日

【2014/07/10】身体からのアプローチ

セリフもだんだん入って、立ち稽古にも熱が入ってきています。
 当初の基礎的なワークショップの時からそうですが、あごうさんからの役者への指摘は、「(自分の身体感覚を使って)役者自身の中で根拠をもつように」というものです。専門的で難しいかもしれませんが、役者さんは舞台の上で、演出された動きや演技を再現させなければなりません。演技をする上で、まず自分の中でどうしてその演技なのかをよく考えて、しっくりいくように調整することが大事だということだと思います。その「しっくりいった」感覚は、感情等の内面的なことではなく、身体の感覚からアプローチして欲しいということなのです。「セリフが言いづらいとき、なぜ言いづらいのか考えてやって」とも。ついついセリフを暗記しているので、勢いで(相手とのセリフのかけあいの流れで)漫然とセリフを口にしてしまいがちですが、その言葉が出しづらかったら、無意識に口にださないで、立ち止まって意識してみてということだと思います。
 こうしたことの繰り返しで、活きた演技(いきいきした関係性)が生まれてくるのだと思います。公演まであと一月あまり。メンバーの皆さんにとっては、焦りがでてくる頃ですが、基本的なことを大切に頑張って下さい!!

2014年7月10日木曜日

【2014/7/7】通し稽古

通し稽古とは、つまり全編通す事です。わかりやすいネーミングだと思います。


「言葉の溢れる場所」というタイトルのついたシンポジウムに参加していたとある小説家同士がふたり揃って「そんな場所があるならこっちが知りたいよ」とおっしゃっていて、溢れ出た事なんかないよ、毎回、身を削りながら書いているよ、とその後は終止そんな話をしていました。


さて、俳優は決して自分で好き勝手な事を喋っているのではなく、事前に脚本を読んで覚えた作家によって書かれた言葉をその場で話しているわけですが、その言葉は、一体どこから出てくるべきなのか、という事をその通し稽古を見ながら考える事になりました。


決して自分の言葉で喋る事の出来ない俳優から「言葉が溢れる」というような事はきっとないのかもしれませんが、それでも、小説家の豊かな言葉がまるで何処かから溢れ出ているように見えてしまったから「言葉の溢れる場所」なんていうタイトルを付けられてしまうように、俳優たちの言葉もにそんな豊かさが現れてくれれば良いな、とそんな風に思ったのも、その通し稽古の中で、セリフを間違えたり飛ばしたり、各々に苦手なところがあるらしく、覚えて、思い出して、忘れて、と、まだ頭でセリフを追いかけている箇所が各々にあったように見えたから、という事でもあります。


頭で覚えた言葉が、これからの稽古の中で、どんな豊かな演劇の言葉になっていくのか、楽しみです。その成果は、アトリエ劇研の8月の本番にて、皆さんにもお目にかかって頂けたらと思います。チケットも発売中なので、皆さんのご予約、お待ちしております。

2014年7月4日金曜日

【2014/6/30】 6月最後の稽古

少なくとも、着々と衣装も小道具も決まり、台本も最後まで完成して、はたから見れば順調に進んでいるように見えるその稽古ですが、実際に声を出しながら演技をしている出演者にとってはまた別の思いがあるのかもしれません。


楽器であれば難しい楽譜を弾ける人、弾けない人、というわかりやすい境界線があるし、絵を描く事であれば実際に描いた絵が手元に残って、それを自分自身で比較をしながら客観的に判断が出来るのかもしれませんが、演技をするうえでは、台詞を読む、覚える、声に出すという日常的な事でとりあえず、俳優らしい身振りが出来てしまうものですから、楽器を弾くために必要な特殊な訓練や遠近法を使うための計算などの専門的な知識はとりあえず必要とされず、じゃあ難しい早口言葉や難読漢字が読めるんだぞ、フン、と言われても、それが俳優の技術というわけでもないでしょうし、演技をしている自分というのは、自分の目では見れない以上、どうしたって自分だけで解決できる幅は限られてしまいます。


それをどうやって乗り越えるのか、このクラスではとりあえず、怒涛の自主稽古、という選択をしているようです。自分たちの課題は何なのか、とか、こんな稽古が必要ではないか、とか、それぞれが自分たちでどうにかしようという雰囲気が現れてきているようです。


今日は照明の長井さんが稽古の見学に来てくれました。スタッフも含め着々と準備が進む日程の中で、自分たちに残された時間を有意義に使っていただけたらと思います。